応答としての賛美
義しき者よ、ヱホバによりて喜べ、讃美は直き者に適はしきなり。
琴をもてヱホバに感謝せよ、十絃の琴をもてヱホバを讚めうたへ。
新しき歌をヱホバに向かひてうたひ、歡喜の聲をあげて巧みに琴をかきならせ。
旧約聖書 詩篇33篇1~3
信仰が、「神から人へ」の賜物なら、讃美は、「神の義」の中にある者の、「人から神へ」の応答(感謝)なのかなあと思っています。
語弊があると思いますが、私にとってピンとこない賛美歌が多くあります。おそらく私の信仰の未熟さ故だと思います。これまでピンとこなかった賛美歌が、今では心から讃美できるものもあります。
主を仰ぎ見れば 古きわれは、
うつし世と共に 速く去りゆき、
我ならぬわれの あらわれきて、
見ずや天地ぞ あらたまれる。
賛美歌355:1
この賛美歌の詩と曲は、日本人の手によるもののようです。共感というか、私にとって信仰の情景がダイレクトに響く歌詞です。でも、なんでこんな「我ならぬわれのあらわれきて」のような歌詞のものが賛美歌の中にあるのか不思議です。
賛美歌って、神への捧げものであって、歌って気持ち良いとか、歌った本人が満足するものではないでしょうが、でも「人から」のものであるということも大切なのかもしれません。
机に向かうときに、ワーシップ・ソングのCDやテープを小さくかけることが多いです(今もリラというCDを聞きながら)。自由に信仰を歌うそれらの歌詞は、私の耳にダイレクトに響きます。
礼拝のリタージーを軽んじるどころか大切に考えていますが、「人から神へ」という方向性を第一に考えると、始点である「人」についても視野に入れて考えなければならないのかもしれません。
Mar26,1997