神につまずく
<つまづく>ということを考えると、ひょとしたら神につまづくことも大切なのかな、と思えてきました。
自分自身で信仰だと思っていても、それは神への信仰ではなくて、自分が正しいと考える神学に対する信仰ではないかと疑っています。
信仰のドリンク剤を飲んで、ドリンク剤の効き目に頼ってしまうようなもので、確かに神学は大切なんですが、神学の中に逡巡してしまっては本末転倒ですよね。
うまく言い表せないんですが、信仰だと思いこんでいたことが、実は似て非なるもので、サタンにまんまとやられているのかもしれませんよね。
<つまづく>ことを恐れて、今の自分の信仰を守ってしまうと、結局はサタンを喜ばしているだけかもしれませんよね。
<自分の信仰>ではなくて、<神からのたまものとしての信仰>を受けるには、神に愚痴をこぼして、神を罵って、自分のつくった自分の為の信仰(偶像の神)につまづく必要があるかもしれませんよね、特にわたしのような者には・・・。
ひとにつまずいて、教会につまづいて、牧師につまづいて、そして自分の為の偶像につまづいて・・・と、わたしは手数のかかる人間です。つまづくことなく、素直に神の御前に立ちたいと願いつつ、つまづいて、つまづいて、と泥まみれの生きざましかできない者ですが、そんなわたしでも「神の目には高価で尊い」ことを一筋の望みとしています。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はま た、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
旧約聖書 伝道者の書3章11節 新改訳
July29,1995