信仰は夢(異見)
わたしにとって「教会」とは、同じ信仰のリアリティの中にある者の共同体ではなく、「聖餐」を中心に置く「聖餐共同体」なのです。イエス・キリストの堅い岩(主の体と血)に建てられた教会こ
そが「聖なる公同の教会」なのです。
信仰のリアリティを共有出来ないほど異質のcontextの中にあるキリスト者同士であっても(プロテスタント、カトリック、東方教会、コプト教会etc)、主の体と血によって結ばれているという事実の故に、「聖なる公同の教会」における「聖徒の交わり」が活きるのではないかと考えます。
わたしにとって「聖徒の交わり」は<神と人とのsympathy>に基を置く<人と人とのsympathy>なのです。<交わり>の方ではなく、<聖徒の>の方に力点があります。教会は聖書研究会ではなく、キリスト者クラブでもなく、「人と人との横線」が「神と人との縦線」の上に乗っかっているところです、わたしにとって・・・。
<人とのあいだ(関係)>の延長線上に<神とのあいだ>をわたしは考えられないのです。わたしにとって神との関係は、人との関係の連続性に乗らないのです。特異点のようなものです。(強いて言えば、イエスは、連続と特異点の”はざま”の過渡領域のようなものかもしれません。)
わたしにとって神とは「聖」であり「義」です。「畏れ」を感じる存在です。しかしながら人間としてのイエスに対しては”共に”という言葉があてはまります。共に喜び、共に泣く存在です。<人と人とのsympathy>を共有できるのです。だからイエスはすごいんです!!。
どうもイエスにしても、聖餐にしても、わたしには自信がないんです。「わたしの目指すものとわたしの現実の姿」、「連続の中の特異点」と、わたしの信仰は引き裂かれているのです、聖餐によって、またイエスによって・・・・。
「夢(ゆめ)」は「異見(いみ)」が転じたと聞いたことがあります(耳学問です)。現実の生活の中で、現実を突き抜ける思いを持ち、現実と<異>なる中に自分の姿を<見>ようとするのが夢だと。
わたしの信仰は夢(異見)です。realを見ようとする(夢)異見です。realの現実とrealの夢(異見)に引き裂かれているのがわたしの姿です。わたしの信仰です。
July26,1995