肉の神学
主の祈りの中で「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」の部分がわたしには、もっとも力が入ります。ちっとも信仰的でないかもしれませんが、でも、人として生きるための基本ですよね。出エジプトの時、
エジプトでの奴隷時代を振り返ったのも味のないマナが原因ですし、しかし、そのマナを荒野での40年間日用の糧としてヨルダン渡河を果たして最後は、約束の地に入ったのですよね。
わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
新約聖書 ヨハネによる福音書6章48~50節、53節、新改訳
日用の糧といのちのパン(ぶどう酒も)、それに時々は信仰のドリンク剤を飲んで・・・・、この暑い夏を楽しみたいですね!
|追伸:十字架の意味は、およそひとかどの人間なら
| 決して近づかない忌むべきものであり、
| それ故、本質的に躓きの石であると理解しています。
ん~、と思わずうなってしまいます。わたしはあこがれの様な気持ちを十字架に抱いて教会の敷居をま
たぎました。教会の十字架にハイカラと感じていました。
はりつけの刑を現実のものとしてとらえることが出来なくなったことは、喜ばしいことなんですが、でもその分、十字架の意味が、現代のconntextの中では、ぼやけてしまいつつあるのではないでしょうか?
十字架の意味は、《決して近づかない忌むべきものであり、それ故、本質的に躓きの石》であり、その忌むべき十字架にまで自分を謙卑されて下さったところに、人としてのsympathyがあるように思うんです。
でも、わたしのように十字架をハイカラと受け取っていた人間には、十字架が「つまづきの石」となっていたように思えるのです。殉教、殉死としての十字架の苦しみを見ていたんです。それを美化するよう
な気持ちに支配されていました。
・・・これって、ほんとうの十字架の意味を見失っていたことですよね。イエスの十字架ではなくて、わたしの作り上げた(偶像の)十字架だったんですよね。
血と肉の神学の上に堅く堅く立ちたい!そしてほんとうの意味で十字架を仰ぎ見たい!心から思います。
July30,1995