信仰の問題として
私は信仰を(ことばが悪いですが)頭でっかちとなって、理屈の上に理屈を重ねて、だんだん自分自身から離れてしまったような所で納得するのではなく、自分自身の(信仰告白の)問題として考えています。
そのような意味で、神学の学の領域からの解決ではなくて、信仰告白の問題として考えたときに、リベラルな信仰の教会では、一般の信徒の方は、どのようにされているのかなということに関心が向いたのです。そして、一般論からわたしの問題として考えたいと思っています。
わたし自身は理屈っぽい人間ですので(頭の方は残念ながらついてきませんが)、バルトもちゃんと読みたいと思っていますし、理性(神学)の面からのトライも続けたいと願っています。(今は自分の領域の専門書もなかなか読めない状態が続いていますが・・・)
ただ、ときどき思うんです。講解書を読んだり、注解書を調べたり、神学書を前に頭を抱えたりしながら、もっと道は他にないんだろうかな?、と思うんです。
リベラルな教会では、一般の信徒の方々に、あるいは求道者の方々に、まさかバルトの教会教義学や講解書を推薦はしないだろうと。リベラルな教会(信仰)の中で、一般の信徒の方が、使徒信条を自らの信仰として告白するために、牧師はどのようにガイドされているのだろうかと思ったんです。
ふと、自分の信仰について考えたり、悩んだりした時に、わたしも含めて、一般の信徒の方にとって、バルト著作集は、あまりにも重く、遠いように感じるのです。ちなみに、わたしの今出席している教会にはバルト著作集はありませんし、震災で仮営業している神戸キリスト教書店にも揃っていなかったように記憶しています。
なんだかバルトの著作から逃げ回っている様な発言をしていますが(現実そうなんですが)、リベラルな教会では、多分、なんか良きガイドをされていると思うんです。その一端を知りたいな、と思い、あのコメントとなったのです。
ちなみに、わたしは保守的な長老主義の信仰に共感する者です。現在の出席教会がそういう所です。ただ、わたしは、埼玉のホーリネスの教会で洗礼を受けました。とにかく、現在は、信仰と理性の間で引き裂かれた状態にはありません。保守的な信仰にある者として、世の中の主流である聖書学や批評学の成果を〈最終的には〉受け入れていない状態にありますので、教会の中では、整合性のとれた閉じた状態です。ただ、教会の中と外(世の中の主流である聖書学や批評学の成果)とのあいだの軋轢は、あります。そして、その軋轢を教会の中で持っているリベラルな教会に感心します。
September2,1995