信仰の決定的瞬間

 教会の礼拝の説教の中で、ある教師(牧師)の方が、「神は自動販売機ではない。欲しいモノをボタン(祈り)一つで得られるのではない」と云われたことが耳に残っています。

 私はこの教師の話から、「手軽に救いは得られない」ということではなく、「信仰・救いの最終決定権は人間の側にない」ということを改めて確認させられたのです。

 自動販売機では選択権と決定権(「どの」ボタンを「押す」か)は人間の側にあります。もちろん選択権と決定権は代価を投入するという条件付きですが・・・。

 念仏を唱えれば救われる、お百度を踏めば願が叶う、祈りに応える神、信ずれば救われる・・・・、どれも条件付きです。条件には(語弊がありますが)簡単なものもあれば、厳しいものもありますが、どれも人間の側の行為・努力・状況で条件は満たされます。この場合神・仏は条件を満たす者を救ったり、願を叶えたりする「忠実な管理者」に過ぎないのです。条件というルールに主権があるわけです。勿論、願を叶えたり、救ったりすることの出来る存在は「ただもの」ではないででしょう。

 信仰の決定的瞬間において、神は、神の義の下に、主権と主観に拠って「救い」を決定している。これが私の「信仰によって救われる」の捉え方です。
 Aug9,1996

itsumi
信仰