神の義・人の義
「『キリスト教という宗教が正しい』と云うことの意味を見出す」ということは、伝道・布教の特効薬でしょうし、信仰者の「信仰の故の悩み」の特効薬でもあるでしょう。でも、その特効薬ってかなり危険では・・?
信仰の中身が「神への信頼」ではなく「特効薬への信頼」のままであることを恐れます。
なんと云えば良いでしょうか?「神を信じる自分」への信仰、「神が存在すると納得した自分」への信頼、「神を自分にわからせてくれた神学・理性」への信頼、「信仰を自分にしめしてくれた『あの人』の考え方・生き方」への信仰・・・・、どうもうまく表現できないんですが、「自分を神へと導いたもの」に(言葉が悪いですが)しがみついている限り、「神そのもの」ではなく「神へと導いた媒体(神学・人・理性etc)」への信仰に過ぎないように思うのです。(結局は信じる我への信頼)
「『キリスト教という宗教が正しい』と云うことの意味を見出す」ということは、(特に神が見えず、実感できない私のような信仰者にとって)そのことが神への道(path)となり、まさに文典さんのおっしゃる、「道(人・理性)への信頼の座標変換としての神への信頼」という言葉で表現される「信仰」になるのではないでしょうか?
神の正しさは、人によって証明・説明され得るものではないというのが私の信仰の立場です。
Aug15,1996