摂理
「摂理」という言葉を、時々頭に思い描くことがあります。私には神の存在の実感がなく、「みこころ」を知る者ではないのですが、でも、後になって「摂理だなあ」と思うことがあります。
「私が・・・」と、出発点を自分に置くのではなく、「神が・・・」と、摂理の中に生きることがキリスト者の「幸せ」なのかもしれません。神との絶対依存の関係こそ、キリスト者の信仰なんでしょうか?
でも、頑張ってしまう自分の姿があります。神から自立した我 (ego) が、まだ大きく私の中に占めています。
我は 我ならぬ者によって 我なり
古い禅宗の言葉だと聞いているのですが、この言葉を借りれば、「私は 私によって 私である。」に過ぎない存在かも知れません
われわれはまた、「意味」の探求と「検証」を区別しなければならない。前者は存在論の問題であり、後者は認識論の問題である。論理実証主義は「意味」と「検証」を精緻な論理学を基礎にして結び付け、「検証できないものは意味なし」とした(意味の検証理論)。この存在論と認識論の混同の中に、論理実証主義の最大の問題がひそんでいた。しかしながら、科学的「検証」によって神の創造を知りうるとするキリスト者も、実は認識の構造としては論理実証主義者と全く同じ過ちに陥っているのだ、ということに気づかなければならない。
「知と信の構造」付記より、 稲垣 久和 著 ヨルダン社
素直に神様を信じ、委ねたい。 心から思います。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
旧約聖書 詩篇37:5,6
Mar12,1997