癒し
職場の同僚のひとりが、最近向田邦子に凝っているので、昔のビデオを貸したりしている中で、わたし自身も反対に影響されて、本棚の奥からいろいろ取り出して読んでいるのですが、そんな中で向田邦子の弟さんが亡き放送作家の姉の思い出を綴った「姉貴の尻尾」が出てきました。昨夜から読み始めて通勤の行き帰りも併せて先程読み終えました。
エッセイ集の3分の1程度は、飛行機事故に遭った姉の(結果的に)「遺族」として台湾を訪れた1週間程のことをまとめているのですが、「癒し」という言葉を巡って考えさせられます。
身近な者の死を目の当たりにして、台湾に渡った向田邦子の弟である向田保雄さんと日本に留まったその他の家族、そして台湾で一緒になったその他の犠牲者の方の(結果的に)遺族・・・、さまざまな「身近な者の死を目の当たりにした」方々が<生と死>の前で「事実」を求めつつも「癒されること」・「慰められること」を欲している様が、姉の向田邦子とまた違ったタッチで描かれています。
気配り、対応の仕方、フォロー・・・そして故人を偲ぶ様々な出来事、思いと、人と人との間の関係の中での「癒し」「癒され」「慰め」「慰められ」と、「受け身としての癒し」とは違うものでしょうが、大きな悲しみ・不幸を目の当たりにして「癒され」ることを欲するのが人間(人間の弱さ)でしょうか?
(私にとっての)キリスト教の「癒し」は、やっぱり罪からの癒しなのかなと思います。もちろん私が何か悪いことをしたからという意味での「罪意識」からの癒しではなく、原罪という、私にも説明の出来ない、しかしやっぱり原罪ということばがぴったりするような「罪」からの癒しです。(いつもながら、全く説得力がなくてすみません。)
生きていること自体が「罪」とは云いませんが、でもしかし、「いのち」が「いのち」によって生じ、「いのち」を喰らうことによって「いのち」は存在しているのですし、「いのち」を尊いと思えば思うほど、(私は)おぼろげながら原罪の輪郭が見えるような気がするのです。
Apr9,1996