いさおなき我を、血をもて贖い
かなり以前読んだ小さな記事を思い出しました。
週刊誌だったと思います。新聞記事からの切り抜きのコーナのような記事でしたが、教会に通いはじめた頃の、「罪・贖い」というようなことをよく考えていた時に読んで、印象に残っていたのですが、いつのまにか記憶に埋もれてしまっていました。
殺人を犯したある人が、第一審で死刑の判決を受けたのですが、その人は自分が犯した罪を認め、刑に服して罪を償う道を選んだそうです。弁護士や家族の願いもむなしく、結局控訴せずに刑が確定したそうです。(細かい部分は正確ではないです。)
この人にどんな事情があったのか、この記事を読んで、ほんとうにこの人が罪を犯したのか?誰かをかばったのでは?というようなことさえ考えました。
自ら死を選んだに等しいその方の心の中を、家族も、弁護士もほんとうの意味での理解は出来なかったと思います。控訴・上告と、情状酌量・減刑の「希望」を自らふさぎ、死への道を選ぼうとする気持ちを、変えようと必死になることはできでも、その気持ちをわかろうとはしないでしょう。いや、わかりたくもないでしょう。わかるからこそ、否定したくなるのかもしれません。
今日の礼拝で、賛美歌284番を賛美しましたが、ぱらぱらめくっていると、
いさおなき我 血をもて贖い
イエス招き給う、み許にわれゆく。
つみとがの汚れ 洗うによしなし、
イエス潔め給う、み許にわれゆく。
賛美歌271番1,2 日本基督教団出版局
「罪人」ということばを教会・キリスト者は、もっと重たく受けとめなければならないのでは、と感じました。(私だけ?)
Dec29,1996