神にではなく人に

 心の貧しい者、つまり自分を無とする者、神に委ねる者を”幸いです”と言っています。がんばって、自力に依り頼む者ではなく、神に無条件降伏して神という他者に依り頼む者を是としています。

 屁理屈のように聞こえるかも知れませんが、結婚式で永遠の愛を神に誓うことは、キリスト教的でないような気がしてなりません。ただ、この世に生きる者として、この世の中で責任を持って生きることは当たり前のことですし、がんばることは大切です。

 私はこう思います。二人の幸せを神に委ね、神に祈り、そして二人がこれから共に生きることを神にではなく、この世に対して宣言し、誓うべきではないかと。その意味では人前結婚式を挙げて、この世(言葉が大げさですがふたりを包むまわり)に対して幸せになることを誓い、そしてふたりで神の前に跪き神に委ねるべきではないかと考えます。

 もちろんこれは理屈で、心情的には牧師(神父)を通して誓うあの光景に厳粛さを感じます。

 この世でがんばり、責任を持つことは、この世に生きる者として当然です。ほんとうにこの世で<自分を貫いて>生きることは大変なことです。もちろん他人に合わせて生きることも大変なことです。

 私はひとりのキリスト者として、信仰に関しは<がんばらない>。そして、<神に対して受け身>であり続けるが、この世に置かれた者として、この世で精一杯生きることが(この世でがんばることが)<今を生
きるキリスト者>として大切だと考えています。

 その意味で、神に対して誓わず、人(世)に対して誓うべきではないかと考えます。

 私は神に対して<心貧しく>ありたいと思う者です。でもそれって、結局は<心貧しい我>という「自我」」の主張なのかな・・・・・?
 July2,1995

itsumi
愛・隣人