他人に苦しみを兼ねることが出来ない悲しみ

 日本語の「悲しい」は”兼ねしい”が転じたものだと聞いたことがあります。耳学問と軽く聞いてほしいのですが、隣人、他人の苦しむ様子を見て、もしその人の苦しみを私が兼ねる(分かち合う)ことが出来れば、その苦しみを共に担う(兼ねる)ことが出来ればと切に願うが、しかし、その人の苦しみをほんとうの意味で理解して分かち合う(兼ねる)ことは、他人の私には出来ない。あなたの苦しみを私が分かち合うことが出来ないこと、そのことが今の私には苦しいことである。「兼ねることが出来ない」、「兼ねしい」が
転じて「悲しい」となったそうです。

 この話を私は鵜呑みにしていませんが、しかし、キリスト教伝統のコンテキストの中で善きサマリア人のたとえ(compassion,sympathy)よりも、この「悲しい」の眉唾物の話の方が私には大きな共感があります。

 人間の思いではなく、神の絶対命令を第一にすること、そのことこそがcompassionのスタートラインだと思います。人間の思いとしての憐れみの感情ではなく、苦しみを兼ねることが出来ない悲しみこそが、”この自分”ではなく、”神”を始点とするキリスト者の出発点のように思うんです。
 Feb 8,1996

itsumi
愛・隣人