洗礼・信仰告白・加入
私は「秩序」ということばによって、「(歴史の上に組み立てあげてきた?)教会の<システム>」の中で「洗礼」を受け、教会員として「加入」しました(システムに組み込まれた?)。
私自身、「信仰を公に告白すること」と、「個別教会の会員となること」が「洗礼」という礼典において、どうして「同時」なのかな?と思うことがあります。「クリスチャンである」ということと、「教会籍がある」ということが「一般には」不可分なんですね。
ただ、「信仰を公に告白」しながら、「(歴史の上に組み立てあげてきた?)教会の<システム>」に対して「わだかまり」というか「拒絶感」を感じる状態というのは、「私は」問題があるなあ、と思います。その問題が、教会というシステムに拒絶感を感じる方の問題か、感じられた個別教会の方の問題か、現在の洗礼の在り方の問題か、今の私にはわからないです。
プロテスタント教会という「範疇」・「秩序」の中にある者として、
・信仰を「公に告白」して、洗礼を受けたクリスチャンが教会籍を持たない。
・信仰を持ち、そのことを「告白」しながら、洗礼に拒絶感を持つ。
これらのことが「当たり前ではない」と感じるのですが、かといって、切り捨てられないです。むしろ「そういうことをも」受け入れたい、という思いを持っています。
「信仰の継承」(私を教会に導いた人、その人を導いた人etc)に教会を感じます。また、「教理・信条」(人間の側の信じ方)に教会を感じます。また「証し」(生き様の共同体)にも教会を感じます。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と使徒信条によって信仰告白する時に(個別教会というより)そのようなものをイメージします。
Dec21,1996