聖餐・教会・戒規
戒規に関して、私も、ものすごく疑問に感じていた頃がありました。いまは「それなり」に納得して受け入れていますが、でも、聖餐の式文を聞く度に「?」を感じることがあります。少なくとも「恵み」とは思えないです。
「教会」がキーポイントではないかなあと思います。聖餐は、「個人的な神との関係」の中ではなく、「教会の礼典」です。教会が執り行うものです。「聖餐の恵み」は「イエスの血肉」であり、決してそれを執り行う「教会」に恵みの「根拠」はないのですが、教会に「委ねられた」ものだと私は思っています。
祈り、賛美、みことばを禁止することは教会には出来ないです。教会での、公の礼拝への「禁足」という戒規があっても、「個人的な神との関係」に教会が踏み込むことは出来ないのではないでしょうか?
私は、「聖餐」は「教会」だと思っています。そして「戒規」も「教会」だと思います。
信じる側の人間の歴史を「秩序」という言葉で表すのは無理がありますが、頭がキリストで、そこに聖霊の働きがありますが、「人間の建てたもの」です。
p.s. 蛇足ですが・・・
「公に信仰を告白する」ということと、「陪餐の資格を有する」ということと、「教会員になる」ということが「受洗」で一つにまとめられていますが、もちろん切り放して考えられないことなんですが、それぞれ微妙に異なるように感じます。(「陪餐の資格」=「教会員」かな?とも思いますが)
Feb7,1997