宣教
「飛び出す勇気」の素晴らしさとともに、「留まる決断」の大切さに思いが及ばなければならないのに・・・、あさはかでした。
私はどうも単純なところがあり、「宣教」というと「海外」「異郷」「異教」と、「飛び出すこと」「攻めること」「出会い」となってしまいます。でも、「宣教」から「留まること」「守ること」「入会い」が抜けてしまうと、「焼畑農業」でしかないのかもしれません。
私たちは、新しい宣教の時代が幕明けしたことを喜ぶ。西欧の宣教団体の支配的な役割は、急速に消滅しつつある。神は、今や後進諸教会の中から、世界伝道のための新しいすぐれた資力を起こしつつあり、それによって、伝道の責任がキリストのからだなる教会全体のものであることを示しておられる。それゆえに、全教会は、自らの地域に福音を届け、あわせて世界のほかの地域に宣教師を派遣するために何をなすべきかを、神にたずねるとともに、自問しなければならない。私たちの宣教上の責任と役割とは、引き続き再検討さるべきである。・・・・
ローザンヌ誓約・第8項 前半より 宇田 進 訳
ローザンヌでは「自らの地域に福音を届け」そして「あわせて世界のほかの地域に宣教師を派遣する」との順番になっています。このことは重要なのかもしれません。
「宣教」の「原点」を「信仰の継承」に置かないと、voidになってしまう?
Mar6,1997