聖母マリアについて

 聖母マリアについてですが、ひとりのプロテスタントのキリスト者として、わたしの信仰の根拠となっています教理(神学)の中に、聖母マリアの入る隙はないです。リフォームドの伝統の流れの信仰にあるとわたし自身は思っているのですが、そのわたしにとって絶対的で無限な神と、相対的で有限な人間を結ぶものは、「ひとであり神である」イエスで十分なんです。過去の十字架の事実と、今現在持たれる(聖霊なる神の働きを伴う)聖餐の事実(主の体と血)で十分なんです。

 わたしが初めてマリア像を目にしたのは、数年前に訪れた長崎の大浦天主堂のマリア像です。そして、その前の年に、長崎は平戸島の、たしか紐差だったかにあるキリスタン史料(資料?)館で見た納戸神に強烈な印象があります。長崎は聖母の騎士の建物の裏手のルルドの印象も強いです。

 伝統的な(根本主義の)プロテスタント信仰の中にあるわたしにとって、教理的な面(神学的な位置づけ)では、生母マリアでしかないです。ただ、カトリックの教会、カトリックの方々の信仰、キリシタンの方々の信仰を通しての聖母マリアに惹かれるのです。そしてうらやましく思うのです。

 伝統的な(根本主義の)プロテスタント信仰において、イエスが全きひとであり、神である教理を受け入れているんですが、信仰の面において、ともすれば、イエスの神的存在の面を強調し過ぎて、ひとである面が付録のような扱いを受けます。

 表現が拙いですが、絶対的で無限な神と、相対的で有限な人を結ぶ「ひとであり神である」イエスが、実は、伝統的なプロテスタントの信仰の局面で、人と神の中点から神の方にシフトしてしまい、中点に空白が生じているような感じがするんです。伝統的なカトリック信仰にも(わたしの推測ですが)同じような傾向があり、その空白を補完するような感じで、「母なるもの」「とりなしをするもの」としての聖母マリアがあるような気がするのです。(私論です、あまり笑わないで下さい。)そうしないと、神とのシンパシーを共有することが出来なくなってしまいます。

この涙の谷にてうめき、泣きて御身に願いをかけ奉る。是によって我等御とりなし手、憐れみ御眼を我等に見むかはせ給へ。
 「さるべ・れじいな」より:どちりな・きりしたん1591年天草版
 August 13,1995

itsumi
宗教・信仰