真理は、ただ垣間見るのみ
わたしは、エホバの証人の方々を、異端・正統という教理の側面だけで判断はしたくないです。
わたしはキリスト者ですし、自分自身の信仰の<拠って立つ所>を持っています。その、わたしの信仰の<拠って立つ所>は、エホバの証人の方々のものとは異なります。わたしは、正しい・誤りではなく、その信仰の違いとなる<拠って立つ所>(聖書解釈・聖書の訳)の差違に興味があります。教理の善悪ではありません。
わたしは、エホバの証人の方々を、教理の側面からではなく、『社会性』の側面から疑問を感じます。
わたしは、この《社会面、倫理面での、同じ大きな「底流」のようなもの》を、エホバの証人に感じないのです。もちろんエホバの証人の方々は、愛を、平和を謳っています。しかし、この現実の社会の中に溶け込んでではなく、一線を画して謳っています。社会性の面で排他的なところに疑問を感じます。輸血拒否、武道拒否etcに現れる、この世の現実から離れてしまっているところにです。
わたしは自然科学というより工学畑の人間です。ですから、「宗教はすっきりしない!」と言うような思いも持っています。
でも、科学(自然科学・人文科学)の手法の中に『信仰』を閉じこめることは不可能ではないでしょうか?宗教に関して「わかる」ということは、『全知』を意味することに思えるのです。そしてそのことは、自分を神的存在に位置することのように思えるんですが・・・?
神に関して、この世の創造に関しては、人間は知り得ないのではないでしょうか?人間の理性をはるかに越えた領域だと思います。有限で相対的な人間は、無限で絶対的なものを知る”すべ”を持たないのでは?
わたしは、こう思うことがあるんです。無限で絶対的なもの(神的存在)を、有限で相対的な人間が、そのすべてを知り得ないと。ただ、その影のようなものを垣間みることしか出来ないと。
3次元の立体の物体を、2次元の平面上で、完全には表現できないですよね。表面の形状だけでなく、その物体の内部が空洞かどうかという内部の形状を考えると、3次元の存在である人間にとっても、3次元の立体の物体を把握することは簡単ではないですね。
反対に、3次元の存在である人間は、2次元平面上に関しては、比較的自由自在に扱えますよね。
2次元平面・3次元空間の関係と人・神の関係に相似(アナロジー)を感じます。神とは『次元』が違うように思うんです。同じ次元の他人のことさえわからない人間が(わたしは自分のこともよくわからない?)、更に高次元の神的存在を知る”すべ”はないと思うんです。なんとなくプラトン的ですが、ただ、影のようなものを垣間みるのみだと思うんです。そして、その影は、視点によって全く異なると思うんです。
わたしは、このようなアナロジーでとらえると、ちょっとはすっきりするかなと考えます。でも、これは自己満足にすぎないです。
August 10,1995