如何に信じるか?
わたし自身、半年の間、毎週一回、エホバの証人の二人の方の家庭訪問を受け、テーブルを囲んで3人で1時間ほど聖書の学びをしました。その聖書研究は、わたしがプロテスタント教会でバプテス
マ(洗礼)を受けたことでピリオドとなったのですが、有意義なものでした。
わたし自身は、エホバの証人の方々に対して教義の面では異端とは思いません。今でもときどき、エホバの証人の方々の家庭訪問を受けますが、ともにエホバ(主)を仰ぐ者としてわたしの方は話をするのですが、残念ながら、エホバの証人の方々は、わたしのようなプロテスタント信仰にある者とは違うのだと、その違いを浮き彫りにされて、共に祈ることも拒否されます。残念に思いながら、それが彼等の信仰かな、とそれ以上は深入りしませんし、同じ方が二度訪れることもありません。わたしの家が2つの会衆のちょうど境界付近になるらしく、2つの会衆の方々が訪れます。
前置きが長くなりました。エホバの証人の方々の信仰については、わたしは、それなりの認めているということを知っていただきたかったのです。その上で、質問があります。
・エホバの証人の方々の信仰は、どなたも一様に思えます。そしてその信仰の内容は、おそらく、ラッセルやバーバーに端を発していると思うんですが、ひとりひとりのエホバの証人の信仰者の方々が、エホバの証人の神学者以外の神学をも、敵対神学ではなく、選択肢のひとつとして学ぶことはあるのでしょうか?ものみの塔の印刷物を用いて、ともに聖書研究をしましたが、わたしの当時読んでいた書籍を持ち出してお話ししても、「興味あるないようですね。」を繰り返すだけで、門前払いでした。
わたしは、エホバの証人の方々の信仰にも触れ、さまざまなプロテスタント陣営の教義もかじり、カトリックの信仰にも触れました。それぞれの信仰の立場の違う面と同じ面をわたしなりに消化して、わたしの今の信仰の立場に自分の居場所を見つけました。エホバの証人の方々には、その様な彷徨はないんでしょうか?
エホバの証人の教義が正しいか否かは別として(それは神のみぞ知ることだと思います。)、どうもわたしの目には(言葉が悪いですが)盲信の様な気がするんです。
どのように聖書を読み、どのように神と対峙し、どのように神を賛美し、どのように神と関わるかは、神とひとりひとりの信仰者の問題ではないかなと考えるんです。でも、エホバの証人の方々には、その「どのように」の部分が、ひじょうに制限されているように感じるのです。ひとりひとりのエホバの証人の信仰者の個性・顔が見えないんです。見えるのはエホバの証人という一つの顔なのです。
わたしは個人的にエホバの証人の方とおつきあいしてきましたし、エホバの証人をカルト集団とは思わないんですが、でも、その要素は多分にあるように思います。教義の面での排他性と均一性は、純粋である一方、ともすれば反社会的となります。もちろん、エホバの証人の方々は反社会的ではなく、むしろ非社会的な様に思います。(もちろんこれはわたしの主観です。)
August26,1995