伝えられた福音
私は伝道熱心なキリスト者ではないです。むしろ、もろい自分の信仰の基盤の補強に熱心です。その意味では自己満足的な部分が大きいとの反省もあるんですが・・・。ただ、神の与えられた堅い岩の上にいることがまだ分かっていないだけなんでしょう。神に委ねる信仰ではなく、バベルの塔のような、もろい自分の信仰の中にあるんでしょうね。そのことが分かっていながら・・・、これこそが罪深さでしょうか?
ただ伝道の「たまもの」があって、はじめて私がキリスト者であることも自覚しています。16Cのカトリックの布教、江戸後期~明治初期のカトリック・プロテスタントの宣教、戦後の宣教・伝道なしには、私の読んでいる聖書もなかったと。そして私の通っている教会も最初は開拓伝道や海外のミッションの宣教のたまものであったと。
多くの宣教師の苦労・死・殉教、多くの伝道者の苦労の故に、今の私のキリスト者の源泉があるように思います。
それぞれのキリスト者にはそれぞれのたまものがあることと思いますので、伝道にのみ焦点をあわせるべきではないでしょうが、すべてのキリスト者が担うことがらの様に感じます。
正面切っての伝道ではなく、家庭の中で、キリスト者であることを「素直に」見せることが家族への伝道のふさわしい方法の一つではないかなと思います。
Feb15,1996