ホスピスと宗教
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
新約聖書 ピリピ人への手紙1章21節 新改訳
まだ私は、死を実感出来ません。健康そのものでは決してありませんが、ポンコツながらまだまだ生きるつもりでいます。ですから救いとか永遠のいのちという言葉に親近感がないのです。
私は理性の面で神学や聖書に興味を持ったと言う部分もありますし、また心のやすらぎを宗教に求めたと言う部分もありますが、むしろ私は、自分の愚かさを通して、神を見上げて生きていきたいと願って信仰を持った様な経緯があります。
死が至近距離となったときに、いろいろなこの世的な欲から解放されて、「人として生きる」と言うことを素直に考えられるのではないかなと想像します。その時に自分の愚かさが見えてくるのではないでしょうか?そして、自分という相対的で有限なものではない<なにか>を求めるのではないでしょうか?
わたし自身は、自分が絶望の中にあった時に、心の平安を求めて外へ逃げる部分もありましたが、内へ向かって自分の愚かさと対面した部分もあります。私にとっての<時>だったと思います。
神のなさることはわからないのですが、死を目前とした時に<時>が与えられる方もいらっしゃるように思います。
人によって長い短いはありますが、神を見上げてキリストと共に歩む幸いを素直に受け入れて生きることが大切なことのように思います。それが数十年の人生の大半であったとしても、たとえ死の直前の数分であったとしても・・・・。(生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。アーメン!)
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
新約聖書 マタイによる福音書 20章14~16節 新改訳
朝早くから働いた者にも、夕方から働いた者にも、等しく1デリナを与えた主人のように、クリスチャンホームに生まれて幼児洗礼を受けて神と共に一生を歩んだ人も、死の直前の数分間を神と共に歩んだ人も、神と共に歩んだことの故に幸せだったと私は思います。
死の直前に神を信じるのが美談なら、若いときに信仰を持つことも美談ですね。
Mar8,1996