社会性
「信仰の対象は実際キリストでも異端でも仏教でも新興宗教でもなんでもよく」という部分は、私は否定できないです。京都や奈良のお寺を訪れて仏像を見るのは好きですし他の宗教を否定はしませんし、それらを信じている方の姿を尊いと思います。(先週も京都を訪れました。)ただ、「私にとって」救い主は聖書の三位一体の神のみです。
「(破壊的カルトは除く。)」という部分に私は疑問符をつけます。破壊的カルトと呼ばれている宗教団体が社会的に問題があると思います。社会性がないというだけでなく、積極的に社会に危害を与えることを宗教の名に拠ってするのですから、迷惑な存在です。ただ、だからといって、その宗教を全面的に否定してもよいのだろうかと私は思うのです。
社会性があって、奉仕活動・慈善事業に熱心で、信者の方々が穏やかなら、その宗教は「良い」のでしょうか?反対に社会的に問題な行動を繰り返し、毛嫌いされるような宗教は「悪い」のでしょうか?(社会的な意味では勿論そうです。)
ただ、信仰を持つ者として、社会性という側面で、その宗教全体を判断するのはどうかなと思うんです。社会的に「良い」宗教でも、絶対的な意味での神的存在(救い主)に繋がらず、道徳・心の平安を謳っているような内容の信仰なら、それは宗教と云えるのかなと思います。(無神論者からすれば「良い」宗教ということになると思いますが・・・)もちろん、絶対的な意味での神的存在(救い主)に繋がるように装って、実際は「人」を奉っているようなモノもありますし、難しいことだと思います
新改訳という日本語訳の聖書があるのですが、そこでは「聖絶」という言葉が出てきます。神が、「神の義」に拠ってあるモノ(人、民族を含めて)を根絶やしすることを「聖」であるという意味です。(クリスチャンのすべてがこのことに同意はしないですが)何が云いたいかというと、キリスト教も社会的に問題を起こすこともあり得るということです。(合衆国のpro-life対pro-choice、アイルランドのカトリック対プロテスタントetc.)そしてある人々からすれば「カルト」集団として捉えられる様に働く場合もあり得るのではないかと思います。(江戸期において、切支丹は一般民衆にとって「カルト」であったのではないでしょうか。少なくとも為政者によってそのように仕立てられたのではないでしょうか)
私自身のことですが、日曜日に予定が入った場合、たいていは教会の礼拝出席の故に断るのですが、社会性・社交性の点でどうかなと思うことがあります。
Aug8,1996