あこがれ
出津の教会を訪れて私が感じた印象は、「閉ざされた」ではなく「開かれた」教会の姿をそこに見た思いをもったのです。
赤い煉瓦造りの黒崎の教会を目指して長崎駅前からバスに乗ったのですが、黒崎に着いて隣町の出津に歴史資料館があることを知り、延々とバスを待ってやっとたどり着いた出津の丘の上で、偶然に「沈黙の碑」と「出津の教会」に出会ったのでした。出津の教会を訪れて私が感じた印象は、「自分を拒絶しているように」と感じたサバオさんとは、むしろ正反対ともいうべきものです。「閉ざされた」ではなく、「開かれた」教会の姿をそこに見た思いをもったのです。
私が洗礼を受けた教会は、団地の一室、1LDKの教会でした。日曜だけ扉に教会のプレートを張り付けますが、それ以外の日は、鉄の扉で外界と遮断された密室です。もちろん日曜日も、気軽にその扉を開くような雰囲気を漂わせてはいなかったです。特定の人間にとっての(魂の)憩い・礼拝の場であっても、隣近所の方にとってはあやしげな「特異点」でしかなかったと思います。
教会が隣近所に開かれているということは、ある意味では素晴らしいことだと思います。出津の教会は塀がなかったように記憶しているのですが、自由に教会の境内に入ることが出来、しのぶさんやドラさんの
幼い頃のように「隣近所の子ども達が教会の庭で遊んで育つ」という環境は、現在の都市部の教会ではなかなか得難い、尊いものです。
出津の教会で、同じカトリックだから感じることが出来たことを、私のようなカトリックの外にある一見学者では感じることが出来ないこともあるでしょうし、一概に言えないのですが、私にとって出津の
教会は「あこがれ」でもあるのです。同じような思いをキリシタンの足跡を辿って訪れた長崎・伊王島の馬込教会や平戸の宝亀教会でも感じました。
確かに、そこには、「ムラ社会の陰影とでも言うようなものがモヤモヤと漂って」いると表現されたものがあるのかもしれませんが、でもコンテキストに根付いた教会の「あるべき姿」と私は捉えています。
「地上から舞い下りたのはいいが、羽衣をなくしてそのまま土地の男といっしょになってすっかりお嬶さんになってしまった天女のような教会のたたずまい」を、都市部の住宅地の中にあるちょっと大きなプロテスタントの教会に感じてしまいます。
逆に「同じプロテスタントだから」そう感じるのでしょうか?
Nov3,1997