学生運動の潮流と課題

元全学連中央執行委員長 北小路 敏
 「青春の墓標」奥浩平 の解説より

 この本に収録された奥浩平君の遺稿は、公開を予定して書かれたものではありません。ですから、読者の方々がこれを読まれる場合いろいろ説明不十分な点が出てくると思います。とくに、安保以後の学生運動の分裂については、運動の中にいて内情を知っている人でないと、大変わかりにくいことが多いでしょう。
 そこで、私は、この小文の中で、主として一般の読者の方を念頭に置いて、なぜ現在のような学生運動の分裂が生まれたのか、そして学生運動が直面する課題はどこにあるのかという点を中心に述べてみようと思います。限られた紙数でもあり、また私なりのこれまでの活動をふまえたものになりますので、不十分な点は多々ありましょうが、奥君の歩みの背景の一端を明らかにできれば幸いです。

安保闘争と学生運動の転機

 五年前、当時の私たち全学連は、新安保条約に反対し、労働者階級をはじめとする国民 諸階層の人々と共に、激しい抵抗に起ち上りました。奥君も高校生として全学連の六・一 五闘争に参加しています。そしてそれが彼の生涯を政治運動に向わせる大きなきっかけと なったのでした。

 日本学生運動史において、全学連の安保闘争は巨大な位置を占めています。これまでの どの運動にも比べて、それが、最も大きな大衆闘争であった、ということはもちろんですが、さらに、日本学生運動の主導的な思想に決定的な転機をつくる舞台となった、という点が重要です。そして、今日の学生運動の分裂は、その点に深く起因しているのです。 しかし、このことを説明するには、その前提として、どうしても次の二つのことだけは述べておかなければなりません。

学生自治会と活動家組織

 第一には、学生活動家組織についてです。よく学生運動の分裂を説明する場合、何々派だということがいわれますが、これはどういうものであり、学生全体とどういう関係に立つものか、という点です。

 学生運動の組織的基盤をなすのは自治会です。自治会には入学と同時に全学生が加入します。自治会は終戦直後の学園民主化闘争の中で生まれ全国の大学に拡がりました。自治会の目的は、全員加盟の大衆組織だという性格からも明らかな通り、学生の利害にかかわる諸問題を一つ一つ具体的に取りあげ、運動を進めていくことにあります。会員にはさまざまな思想の人がいますから、あらかじめ特定の思想を押しつけることができないのは言うまでもありませんが、しかしどのようにして一つの具体的目標を実現するのかについて 討論していく過程で、多数の一致した線に沿って一つの政治的方向が打ち出されてくるの もまた当然のことであります。とくに執行部は、つねに内外の情勢に目を配り、全学生の 先頭に立って必要な問題を大胆卒直に提起し、討論を推進し、決まったことを中心になって実行していくのですから、その役割は重要です。

 このような自治会の連合体が全学連、すなわち全日本学生自治会総連合です。 全学連と各自治会の中間機関として、都道府県学連があります。

 以上述べたように、自治会や全学連そのものは、決して革命を目的とする組織ではありません。しかし、活動的な学生であればあるほど、単に自治会の活動を進めることだけにとどまらず、現在の資本主義社会の諸矛盾を根本的に変革する道を求めるようになるのは 全く当然のことです。そういう先進的な学生が、 思想的・政治的見解を同じくする活動家組織に加盟していくのです。

 ほとんどすべての政党・政治組織は、そのもとに全国的な学生活動家組織を持っています。その具体的な名前はあとで述べますが、一般的に言って活動家組織の主な目的は、第 一に、自治会と全学連の活動を内部から支え、その中心的な推進勢力になること、第二に、 政党・政治組織と一体となって独自の政治的活動や思想的宣伝を行なうこと、第三に、それらの活動の中で学習し、考え、大学を卒業してからも不屈の闘いを進めていく人間に自分をきたえていくことにあると言えるでしょう。

 どの活動家組織がどれくらい学生大衆から支持されているか、力量を持っているか、という度合いに応じて、その自治会の執行部の政治的色彩が決まってきます。 「単独政権」 になったり「連立政権」になったりします。あるいは「完全野党」の場合には反対派フラクションの中心にもなるわけです。

 現在では、活撥な大学ほど、いくつもの活動家組織が併存し、対立あるいは友好的競争 の関係にあります。従って、互いの組織間では論争しあうが自治会の中では統一行動を進めていくという努力を怠れば、活動家組織間の対立を自治会や全学連の分裂に直結させてしまう危険が、つねに存在しているといえます。

安保以前の学生運動の特徴

 第二に述べたいことは、このように多くの活動家組織が併存する状態は、安保闘争以前には見られなかったことだという点です。

 安保以前、正確には一九五八年以前の日本学生運動は、一貫して日本共産党の単独支配下にあった、という著しい特徴を持っています。終戦後、先進的学生たちは「共産党は戦争に反対した唯一の党」と信じて、そのもとに馳せ参じました。それ以来、一般学生の支持政党を調査するといつも社会党支持が圧倒的多数であったにもかかわらず、活動家のほとんどは共産党員またはその支持者であり、社会党は全くその学生組織をつくることができない、という状態が続いてきました。

 しかし、実は共産党はこうした学生たちの期待をいくたびも裏切ってきました。アメリカ占領軍を解放軍だといって二・一スト中止に賛成し、一九四九年に至る労働運動の大敗北を招いたり、五〇年のコミンフォルム批判およびサンフランシスコ講和後は一転して反 米武装闘争に走り日本帝国主義復活に対する闘いを放棄して多くの活動家を火えんびん闘争や農村工作に狩り出したりしました。そのたびに共産党中央は、学生運動を共産党の誤った方針の先兵に利用し、学生運動に大きな損害を与えています。とくに五〇年に始まる 共産党の分派闘争の中では、レッドパージ反対闘争に勝利した全学連の執行部が国際派党員で占められていたことを理由に、その成果を否定し主流派党員を使って執行部を暴力的に追放させています。

 ところが、それほどの目にあっていながら、当時の共産党中央に批判的な学生党員たちは、共産党を内部から変えるという幻想を一歩も出ることができず、結局、共産党の誤りを必死になって救ってやる役割を果してきたのです。そしてそれに絶望した学生たちは 「これが共産党ならもう革命なんかごめんだ」と考えて、戦列から離れる道を選んだのです。大島渚監督の「日本の夜と霧」という映画には、当時の重苦しい状態が描かれています。 なぜ、こんなみじめな思想的腐敗が生まれたのでしょう。それは、結論的に言って「共産党はマルクス主義の党であり、唯一の前衛である」という固定観念にとらわれ、さらに「日本の共産党は誤りをおかすことがあってもソ連や中国の党はつねに正しい」という国際共産主義運動の権威に対する盲従があったからです。

安保後の分裂の根本原因

 果して共産党だけがマルクス主義の党だということがつねに絶対的に言えるのでしょうか。共産党がそう言っているから、というのは何ら理由になりません。幾度も誤りをおかし日本労働者階級の闘いに大打撃を与えておきながら、それがほんとうに自己批判されないのはなぜか。「十八年間も牢獄にいた」「四十年間一貫して闘ってきた」ということをもって免罪符にするのは前衛としては恥ずべきすりかえです。労働者階級と人民は生きるために闘わなければならないのです。最後の勝利に向って前進しなければならないのです。 共産党がそれを導けないなら、新しい党をつくらなければなりません。「共産党はマルクス主義を歪曲したのではないか」、こういう重大な問いを突きつけ、「共産党=唯一の前衛」という図式を打破し、共産党をのりこえる左翼勢力を結集して闘おうとしたのが、安保闘争全学連の中にいた共産主義者たちだったのです。

 その土台は、すでに安保闘争以前につくられていました。安保闘争の全学連を最も中心になって担った世代=当時の四年生は一九五六年入学組です。その前年=一九五五年、共産党が六全協の「自己批判」を行い、武装闘争に引きまわされていた学生党員たちは放心状態に陥って、全国の自治会はガタガタになっていました。一九五六年入学組の学生党員たちは五〇年当時の経験を受け継ぐ少数の生残りOBと共に、自力で学生運動を再建してきたのです。思想的には共産党中央の枠を出ず、ソ連核実験を無条件に擁護したり、ハン ガリア革命に対するソ連の武力弾圧を支持したりしましたが、戦術の上では、六全協自己 批判で社会党よりも右になった共産党中央を批判し、五七・八年の勤評・警職法闘争の中 で戦闘的労働者と共に歩んできました。また党中央が反米の「民族民主革命」綱領を唱えたのに対して「社会主義革命」を対置しました。これに対して党中央は官僚主義的しめつけをもってのぞみ、学生党員たちを続々と除名しました。しかし除名された学生たちは、 以前の先輩たちが「共産党=マルクス主義」に絶望して沈没していった道を選ばず、「新しい党」をめざして、一九五八年末に共産主義者同盟を結成したのです。

 こういう土台があったからこそ、安保闘争の全学連は、共産党の妨害と第二全学連をつくろうとする破壊工作に屈せず、また社会党の妥協的姿勢を排して、戦闘的に闘いぬいたのです。国民会議中央を握る社共ブロックは、一九五九年十一月二十七日、数万の労働者・学生が国会突入デモをかちとったことを非難し、それ以来羽田デモに反対し、国会デモをお焼香請願におしとどめ、労働者のストライキをおとなしいものに終らせることに腐心し、全学連の六・一五闘争と労働者デモを分断するなど、安保闘争をおさえる役割を果しました。これに対して全学連の闘いは、闘争全体を高まりに導びく重要なきっかけをつくっていきました。

 しかし、この闘いは全学連と共産主義者同盟をも試練にかけずにはおきませんでした。

 安保闘争が終ったあと、共産主義者同盟は三派に分裂し、さらにそれらも半年ほどのうちに自己崩壊してしまったのです。なぜか? 一言でいえば、共産主義者同盟には「共産党によって歪められたマルクス主義をよみがえらせる」という共通の言葉はあったが、その内容ではマチマチであったからです。だから、安保闘争の戦闘的部隊として闘いぬいたのち、それをどのように総括し、今後どのように進むべきか、という点をめぐって、意見がわかれてしまったのでした。

 しかし、それにもかかわらず、戦後一貫して日本学生運動を苦しめてきた「共産党=唯一の前衛」という観念を打破し、マルクス主義の革命的思想を復活させなければならないという主張を、安保闘争の高揚を媒介に、公然と社会に打ち出したことは、共産主義者同盟の大きな功績でした。

 そしてこのことは、決して学生運動だけの問題ではなく、労働運動をはじめ日本のすべての戦線の問題だということが認識されていきました。学生運動は、ただそれを他に先がけて経験することができただけです。全学連を支持して闘った良心的な共産党員や社会党 員を含む戦闘的労働者と知識人の間で新しい動きが発展していきました。

 以上のことから明らかなように、安保闘争後の学生運動は二つの大きな流れに分裂しました。第一のものは、安保全学連の闘いを受け継ごうとする勢力であり、第二のものは、 それを全面的に否定して歴史を逆に戻そうとする共産党の勢力です。 共産党は安保闘争のさなかに、ついに全学連反主流派の党員たちに全自連を結成させ、全学連を分裂させました。それに対して全学連の先進的な学生たちは、全学連の戦闘的旗印を守りながらも、共 産主義者同盟崩壊の教訓をうけとめ、新たな政治組織を形成するための苦しい努力を続けなければなりませんでした。旧主流派の四分五裂といわれた事態が起りました。

 この旧主流派の分裂は、全学連の戦列を細分化させ、多くの一般学生を闘いから離反さ せる結果を招きました。そしてその間隙をぬって、共産党が右から一定の進出をみせ、 安保闘争で壊滅状態になった共産党の学生組織を回復させてきています。

 しかしこのことをもって、旧主流派の分裂を傍観的に非難することは全くまちがっています。重要なことは、共産党と訣別した革命的な共産主義者の共同の事業として、いかに 日本の闘いの中にマルクス主義をよみがえらせ、新たな闘う労働者党を形成していくか、という問題です。この事業は、決して共産党の独断のかわりに今一つの何らかの独断を対置し、妥協的に一つの組織に集まるというようなやり方ではできるものではありません。 自分の考えに従って自分の組織をつくり出し闘いを進めながら、他の組織の人々と厳しい 思想的・政治的論争を行っていくことを通してしか、新たな高い次元での同一性をつくり 出すことはできないのです。

 私たちはその渦中を突き進んできました。そして奥君もその優れた人間の一人だったのです。

学生戦線の諸潮流

 現在、学生運動の中に存在する活動家組織について、詳しく述べる紙数がありませんが、 その相互関係を略々、述べておきます。

 旧共産主義者同盟のメンバーの多くが革命的共産主義者同盟全国委員会に合流しました。 革共同は旧共産主義者同盟以前に結成された組織ですが、その主流がトロツキーの理論を 機械的にあてはめようとしたことを批判して、革共同全国委員会は五九年に結成されたのです。そして全国委員会は、旧共産主義者同盟が思想的には共産党を抜け切れず、マチマチな集合体であったことを批判しながらも、安保闘争の中では終始、共産主義者同盟と統一行動を続けてきました。その思想は、反帝国主義・反スターリン主義という言葉にあらわされています。 つまり、一九三〇年以降の現代世界で、資本主義諸国が第二次大戦をはじめ幾度かの大きな危機に直面しながら結局今日まで生き延びて来たのは、ソ連をはじめ とする国際共産主義運動の大きな誤りに助けられているからだ。そしてその誤りの背後にはソ連圏の国々で政治権力が労働者階級の手から特権的な官僚層に奪われ、官僚の御都合主義によって共産主義の原則がねじまげられているという事情が存在する。 従って、世界の社会主義革命は、帝国主義とこのスターリン主義がからみあっている現代世界の体制全体を変革しなければならず、日本の社会主義革命もその一環に位置づけられなければならない、というものです。社会党、共産党にかわる闘う労働者党の結成を目指して、戦闘的労働者を結集する、という組織方針をとっています。また戦争と平和の問題では、米ソ核実験反対闘争をはじめとする反戦闘争の方針を打ち出してきました。

 革共同全国委員会の学生活動家組織がマルクス主義学生同盟であり、奥君は、このマル学同に加盟し、そしてさらに革共同全国委員会の同盟員になりました。

 これに対して、旧共産主義者同盟は社会主義学生同盟という学生活動家組織を持っていました。共産主義者同盟の崩壊後も、社会主義学生同盟だけは残り、いくつかのグループに分れながらも闘ってきています。そしてその人々が中心になって、六三年頃から、新しく三つの共産主義者同盟(マルクス主義戦線、関西ブント、マルクス・レーニン主義派) がつくられています。

 全学連旧主流派の中では、このマル学同系と社学同系が二大潮流をなしています。そのほか、社会党系の青年活動家組織である社会主義青年同盟が最近、学生運動でもかなりの成長をみせています(その内部には、解放派、協会派、構造改革派があるが、学生運動で は解放派が大勢を占めている)。

 他方、共産党はその後、党内の構造改革派を除名しました。六一年の春日派除名によって生まれた社会主義革新運動は共産主義青年同盟、統一社会主義者同盟は社会主義学生戦線、という活動家組織をそれぞれ持っています。また六四年に除名された日本のこえは民 主主義学生同盟を持っています。これらの三派は共産党系との統一行動に幻想をもっていましたが、にべもなく断わられ、現在では行動の上で旧主流派に近づいています。 (以上、 図表参照)

全学連再建へ――結びにかえて

 全学連を再建することは焦眉の課題であります。 急を告げる内外情勢もそれを要請しています。

 共産党とその活動家組織、民主青年同盟は、構造改革派除名によって崩壊した全自連を平民学連(平和と民主々義を守る学生連合)につくりかえ、五九年末には、さらにその名前を「全学連」に書き改めました。全学連を分裂させ、全学連を非難してきたものが、全学連の声望を盗みとろうとしているのです。旧主流派と共産党系が学生運動で統一行動をとるのは、現状では絶対に不可能です。 なぜなら、その間には鋭い思想的対立があるから、というよりも、共産党自身が絶対にその統一行動を受け入れないからです。「社会党は民主勢力だが、かつて共産党にいて除名された人間はすべて反党分子であり、アメリカ帝国 主義の手先である」という、奇妙な理屈をつけて、共産党は旧主流派を敵視し、今もなお、ありとあらゆる中傷を浴せかけています。安保以前の学生運動をひきまわし苦しめてきた 独善的な思想が、みにくい姿をとって開花しているのです。

 誤った歴史を二度とくり返さないために、旧主流派をはじめとするすべての闘う学生たちの手で、全学連は再建されなければなりません。共産党の自称「全学連」との対立が続くことは避けられないことであり、その克服は労働運動内部で戦闘的労働者の力が伸長していくという条件にも助けられなければならないでしょう。

 旧主流派系の各組織の間では統一行動が強められています。四分五裂の中で、政治組織 の分裂を自治会・全学連の中にもちこみ、それによってますます互いに聞く耳を持たない やっつけあいになった痛い経験に学んで、大衆行動の面での統一行動を強め、それを基礎に自治会をほんとうに全学生の組織としてたて直していこうとしています。 二年前から始まったこの努力は、昨年末、各派共同の力で都学連再建準備会をつくりあげ、そして今年の七月には名実ともに都学連を再建するところまで漕ぎつけました。

 このような大衆行動での統一への努力が一方にあってこそ、各組織間での思想的・政治 的討論がほんとうに始まるのです。そして現にそれは徐々にではあるが進んでいます。学生運動だけでなく、労働運動の中で、戦闘的労働者間での統一行動と討論が強められています。各派共同主催の大衆集会もたびたび開かれるようになりました。 先の参議院選挙では、革共同全国委員会、共産主義者同盟(マルクス主義戦線)、長崎造船社会主義研究会 の三者が社会主義労働者戦線を結成し、統一候補をたてて闘いました。

 こうしたことを最初に呼びかけ、そのために最も大きな努力を払ってきたのが革共同全国委員会でありマルクス主義学生同盟でした。マル学同自身もまた、六一年七月の全学連 十七回大会での社学同系との分裂に一半の責任を負っています。まず自分自身の独善的なセクショナリズムを打破し、安保闘争をともに闘った戦闘的左翼の間での統一行動をつくり出そうとしたこの試みは、最初、革共同自身の中で大きな反対に直面しました。そして 統一行動を「野合」だと非難した人々は、六三年、別に「革共同革命的マルクス主義派」をつくって分裂していきました。それ以来、マル学同も中核派と革マル派に分裂しました 統一行動のための努力が今ひとつの分裂によって始まらねばならなかったことは、まことに不幸なことであり、旧主流派自身の中にもあったセクト主義の端的なあらわれであります。奥君の遺稿を読まれればわかるように、このことは奥君の魂を引きさきました。

 マル学同と社学同の対立後も、マル学同の手によってかろうじて持ちこたえられていた全学連は、このマル学同の分裂のために、最後的にその機能を失いました。当時、全学連中央執行委員会の多数派を占めていた革マル派は、中核派を追い出して、今も自分たちだけで全学連を唱えています。しかし全学連は決して一派の私有物ではありません。それは全日本のすべての闘う学生自身のものです。現状に即して、併存している多くの活動家組 織の統一行動を強め、その保障のもとに、何派であるを問わず、いや何派でもない多数の一般学生自身の組織として、全学連は再建されなければなりません。

 その日は遠くないでしょう。必ずそうしなければなりません。私もそのために全力の援助をすることを誓って、奥君の冥福を祈りたいと思います。