沈黙

 もう35年も前になりますが、東京・お茶の水クリスチャンセンターで、毎週金曜夜に「フライデーナイト」という集会があって、その中でゴスペル・シンガーソングライターの山口博子さんのプレイズソングミニコンサートで唄われた曲「時を忘れて」の歌詞が、長い時を経た今も、心に響いています。

目を閉じなければ 見えない世界がある
口を閉じなければ  言えない言葉がある
耳をふさがなければ  聞こえない声がある

(時を忘れて、山口博子、お茶の水クリスチャンセンター、May10, 1991)

聖書には、

太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
(John 1:1,文語訳)
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
(John 1:1,KJV)

 神は、言葉、 Word、λόγος・logos ・・・目を閉じれば言葉を読むことが出来ず、耳を閉じれば言葉を聞くことが出来ません。また口を閉じれば言葉をしゃべることも出来ません。

Hello darkness, my old friend
I’ve come to talk with you again
Because a vision softly creeping
Left its seeds while I was sleeping
And the vision that was planted in my brain
Still remains within the sound of silence

(The Sounds of Silence,Paul Frederic Simon,Simon & Garfunkel,1965)

 「耳をふさがなければ 聞こえない声」は、sound of silence(静寂の音)なのか?沈黙という切り口を考える中で、2021年12月15日に教皇フランシスコが、水曜恒例の一般謁見での講話において、福音書の中で描かれる「聖ヨセフの沈黙」についての講話が、心にスッと入ってきました。

「彼は沈黙をもって、御言葉のための、イエスのための空間をあけるように、私たちを促しています」
「ただし、ヨセフの沈黙は、決して“聴こえない”から、ではありません。”聴くことで満たされている沈黙”、”勤勉の沈黙”、”自身の偉大な内面性を引き出す沈黙”なのです」

(教皇フランシスコ、ヴァチカン、2021年12月15日)

「父なる神は、永遠の沈黙の中で御言葉を、御子を語る。沈黙の中で、魂によって聴かねばなりません」
(十字架の聖ヨハネ、16世紀のスペインのカトリック司祭)

「沈黙によって広く開かれたこの瞑想的な生活の次元を取り戻すうえで、聖ヨセフの模範に倣うことが重要ですが、それは容易ではない。沈黙は、ぞっとするようなものになる可能性があります。それは、沈黙が私たちに、自分の中に入り込み、その最も真理に近いものに反対するよう求める恐れがあるからです」
「沈黙のための空間を育てなさい。そこに、もう一つの『言葉』ー私たちの中に住まわれる聖霊の言葉ーが湧き出るように」
(教皇フランシスコ、ヴァチカン、2021年12月15日)

 沈黙について、考えさせられました。






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