教会 ecclesia, chapel

沖之島天主堂(馬込教会)、2012Aug24,長崎・伊王島

 教会という言葉は、古代ギリシアの都市国家・ポリスの民会(市民総会)のようで、古代ギリシア語の έκκλησία (ekklēsia・エックレーシア)がルーツのようで、キリスト教の信者の集まりを指し示したり、集まる場所・建物を指し示す言葉となっています。写真は十数年前に長崎を訪れた時に立ち寄った伊王島・沖之島にある沖之島天主堂で、会堂は山田洋次監督の映画「家族」で結婚式のシーンで使われていました。

 「長崎を訪れた時に馬込教会に立ち寄った」とは、沖之島天主堂というキリスト教の会堂(物理的な建物、地理的な位置)という意味での「教会」です。そして「この教会の経緯・展望」という場合は、キリスト教の信者の集まり(社会的な集合体、群れ)としての「教会」です。日本語のニュアンスとしては教会をチャペルと言えば、物理的な建物・地理的な位置であり、エクレシアと言えば社会的な集合体・群れを指し示すケースが多いように感じます。ただチャプレン(chaplain)というと教会から離れて活動する神父や牧師を指し示すケースが多いです。

 教会という言葉は、多様多種な意味・内容を指し示しますが、クリスチャン同士では文脈からは何となく通じることが多く、また多少のスレ違いがある場合もあるようにも感じます。曖昧であやふやのようで、でも確固たる構成概念を持っているようにも思う不思議な言葉です。

 教会にはじめて行くようになって今年で40年になります。物理的な建物へ通い始めて40年という意味であり、またクリスチャンの方々との交わりが始まって40年という意味でもあり、そして賛美や聖書、祝祷や信仰というキリスト教的伝統や聖典と出逢って40年という意味もあります。ただ、その40年の間で教会とつながっていたのは7~8年ぐらいしかなく、特に昨年・2025年の梅雨頃までは20年以上の間は教会から離れていました。ただパイプオルガンの演奏会や潜伏キリシタンの足跡をたどって長崎を廻った時など、積極的に教会を訪れていましたが、それはミサや礼拝という儀礼・祭祀とは無関係でした。

 久し振りに教会とつながるようになって、教会って?、と考えると、わかっているようで、でもつかみ処がないような漠然として、混沌としているようにさえ感じます。中世のヨーロッパでは普段の俗生活も含めて教会が覆いかぶさっていたようにも捉えられる情報も散見されますが、今はカルトやエセ宗教にそのような傾向があったとしても、普通の一般的な教会では(良い悪いは別として)サンデークリスチャンという言葉が使われるような状況です。

 インターネットに溢れている情報の中には、オーガニックチャーチ、シンプルチャーチという方向性や、ReChurch(教会の再構築)、あるいは「教会再考・再興」というキーワードの情報発信が見受けられ、いろいろな書籍やコラムもあり、そしてオンライン教会やクラウドチャーチ(Cloud Church)が既にネット上に顕われています。

 今、キリスト新聞社社長・松谷信司が発信する教会を取り巻く問題提起に興味関心を持って接し、考えさせられています。また神学校を卒業後に牧師を経験し、今は教会堂を持たない「会いに行くキリスト教会」で「会いに行く牧師」として、またオンライン教会の牧仕でもある石川有生の発信する情報にも興味を持っています。さらに、これは批判的に捉えることが多いですが元テレビ局政治記者・ディレクターであったクラウドチャーチ牧仕の小林拓馬の発信する情報の切り口にも考えさせられることがあります。

 長い教会伝統で培われた儀礼や礼典、教会堂が醸し出す雰囲気に心が鎮まり、心の安らぎを感じ、そして目眩くようなpasssionを抱くことがあり、基本的には保守的な立場だと自分自身では思っていますが、孔子の教えである温故知新・・・故きを温ねて新しきを知る、普段の生活・人生や、慣習、社会的なcommon sense(共通感覚)というcontextに沿った教会の在り方って何だろうと、考えるようなことがあります。
 

itsumi
blog信仰