保守的なプロテスタント

神港教会(日本キリスト改革派教会)、Nov9,2025

 自分自身のプロテスタントとしての立場として、保守的な立場のプロテスタントという認識がありますが、保守的と言っても、さまざまな切り口があり、考えればそれだけでは曖昧であやふやのような気がしたので、少し考え・調べました。

 信仰の立場として、”聖書を神の言葉”と捉えていますが、これだけでは、ともすれば”聖書信仰”と”新正統主義”を包括する曖昧なフレーズになってしまいます。”聖書信仰”はVan Tilの前提主義の「神の啓示である聖書を前提」として、前提が結論を決するとするルヴァン主義の弁証神学の立場で、「聖書は神の言葉である」が前提であり結論とするものです。それに対して”新正統主義”は、Karl Barthの「神の言葉の神学」の立場が代表的で、自由主義(リベラル)神学に対抗して「聖書は信仰によって神の言葉となる」とするものです。

 ただキリスト教原理主義(ファンダメンタリズム)の立場からは、リベラル神学に対抗した”新正統主義”の立場をもリベラル神学の範疇で捉えることが多く、日本の福音派からも”新正統主義”を保守的な信仰とは捉えていないのが現状です。

 更に聖書に関する立場として、無誤性の立場と無謬性の立場があり、無誤性(inerrancy)とは、 聖書のすべての記述(歴史・科学・数字なども含む)に関して聖書は完全性・正確性があるという立場で、それに対して無謬性(infallibility)は、 信仰・救い・教理に関する核心部分に関して 聖書は誤って導くことがないという立場です。

 無謬性に関しては、第二バチカン公会議における”神の啓示に関する教義憲章”の中のデイ・ヴェルブム(Dei Verbum)で、「救いのために必要な真理について誤りがない」という立場を明らかにしています。そして無誤性に関しては国際聖書無誤性評議会におけるシカゴ宣言、世界宣教会議で採択されたローザンヌ誓約などで「聖書は誤りなき神の言葉」と謳っています。

 また聖書に関しては逐語霊感説と言語霊感説という2つの立場があり、逐語霊感説(verbal plenary inspiration)というのは、「聖書の言葉一つひとつに神の霊感が及んでいる」とする立場であり、聖書の語句・文法・表現に至るまで神が導いたと考え、著者の個性や文体は用いられるが、最終的な言葉の選択は神の主権のもとに書かれたというような立場です。それに対して言語霊感説(conceptual / thought inspiration)は「神の霊感は思想や内容に及んでいるが、言葉の細部は人間の著者に委ねられたとして、神がそれそれの著者に真理を啓示して、その内容をどの言葉で表現するかは人間の著者に委ねたという立場です。

 ・・・聖書に対して、自分では漠然と保守的な立場と捉えていたのですが、既存の幾つかのモノサシで弁別しようとして自分の信仰を改めて考えたのですが、どれも明確に弁別できず、明確に聖書に関して自分の信仰の立場を言い表せないことが浮き彫りにされただけでした。

 礼拝や典礼、教会堂のスタイルに関しての保守的か否かもあり、信仰だけではなくて、政治的な立場(教会政治ではなくて世俗社会の政治権力)、礼拝や教会のスタイルに関して保守か否かが存在すると思います。ただ世俗社会の政治的立場では、ともすればキリスト教ナショナリズム(Christian Nationalism)と混同されて捉えられがちのような気がします。

 賛美に関しては、礼拝の中では長年歌い継がれ、歌詞が文語調の讃美歌を通しての神への賛美が、私にはしっくりします。プレイズソングやワーシップソングは好きですし、手元にあるCDやYouTubeをBGM風に耳にしながら机に向かうことは多く、集会等で歌うのは好きですが、礼拝の中での賛美としては、定型化され長年歌い継がれた讃美歌を好むのは保守的なんだと思います。礼拝のスタイルも、教会堂の雰囲気も、どちらかと言えば荘厳な感じが好きなのも保守的なのかもしれません。 

itsumi
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