Stray Sheep

2月1日の礼拝は垂水福音教会で礼拝を守りました。
伊佐治洋平牧師が聖書個所がマタイ18:10-14より「その一匹の羊のために」と題したメッセージでした。ルカ15:1-7との対比でのメッセージでしたが、興味深かったのはナグ・ハマディ写本に含まれていたイエスの語録集であるトマスによる福音書という外典も持ち出してのメッセージでした。114の文からなるイエスの語録集で、4世紀のエルサレムの主教・キュリロスの「教理講義」には「十二使徒の著作ではなく、邪悪な弟子の著作なのでトマスによる福音書を読んではならない」と書かれているそうです。ナグ・ハマディ写本は1945年にエジプトで見つかっています。
イエスは言われた、「王国は百匹の羊を飼う羊飼いに似ている。その中の一番大きい一匹が迷った。彼は九十九匹の羊を残して、彼がそれを見つけるまで、その一匹を探した。彼がその困難に至ったとき、彼はその羊にこう言った、『私はあの九十九匹よりも、あなたを気にかけている。』」
トマスによる福音書107,英訳からの重訳、Google翻訳による訳文、4 June 2024、Project Classics
※元の英文
Gospel of Thomas,(Translated by Thomas O. Lambdin)
https://www.marquette.edu/maqom/Gospel%20of%20Thomas%20Lambdin.pdf
伊佐治先生は、ルカが迷った羊の立場で描かれているのに対して、マタイでは羊飼いの立場で描かれていることを挙げて、外典のトマスでは一番大きい一匹として描かれいるのに対して、マタイとルカでは、小さき者、悔い改めを必要とする者のたとえとしていることを対照的にした説教でした。
伊佐治先生の話を聞きながら、夏目漱石の作品「三四郎」の場面を思い出しました。三四郎と美禰子を含めて5人で団子坂の菊人形見物へ出掛けた時に、三四郎と美禰子の二人が皆から離れてしまったことに、皆が心配しているのではと三四郎が心配するのに対して美禰子が「なに大丈夫ですよ。大きな迷子ですもの」と答え、「迷子の英訳を知っていらしって」、「教えてあげましょうか」、「迷える子(ストレイ・シープ)──解って?」というやりとりがあり、このストレイ・シープがキーワードのようになって、作品のその後に何度も出てきます。そして作品の最後の場面では、美禰子が三四郎に意味深な言葉をつぶやいています。
女はややしばらく三四郎を眺めた後、聞兼るほどの嘆息をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加えていった。「われはわが愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」聞き取れない位な声であった。
詩篇51:3の聖書の言葉です。
垂水福音教会は来月の3月末で移転して、4月からは舞子パークサイドチャペルで礼拝を守るそうです。それに伴って教会の蔵書である信仰書の一部を蚤の市として出すそうで、2階へ行きました。
テーブルの上にたくさんの信仰書が並んでいましたが、その中で千葉・埼玉時代にお世話になった方が翻訳されたリージェント・カレッジのフーストン師の「喜びの旅路」がありました。もう品切れで入手が出来ない本です。それと、その千葉・埼玉時代にお世話になった方に薦められたシェーファー師の「そこに存在する神」、当時は邦訳書が品切れで、英語のペーパーバックを買ったのですが、途中までしか読んでいなかったです。

垂水教会の中島彰師の本、そして埼玉で洗礼を受けた牧師から薦められた「My Utmost for His Highest」は、当時はまだ邦訳がなく、英語のペーパーバックを入手して、今年も1月1日には読みましたが、いつも3日坊主どころか1日で途絶えていました。

日本キリシタン物語、それと地元神戸のキリスト教の歴史がキリシタン時代から大正末期まで描かれている「神戸と基督教」、そして地元神戸の新川の貧民窟に入り込んで救済の働きをした賀川豊彦師の「死線を越えて」

ちょっと毛色の変わった本で「寅さんとイエス」、そして垂水福音教会の松下勝彦牧師が教義の入門講座用のテキストを、垂水ゴスペルキリスト教会の武川公牧師が1冊にまとめて本。

持っていた”The God who is there” と邦訳の「そこに存在する神」

持っていた”My Utmost for His Highest” と 邦訳の「いと高い方のもとに」です。
この日は松下勝彦牧師と長い時間お話しさせていただきました。