神の義

 千葉・埼玉時代に大変お世話になった方と、正月に二十数年ぶりにe-mailでつながるようになって、6年前に亡くなったJames I. Packer師の小論文集を翻訳・編集されて4年前にいのちのことば社から刊行された書籍をわざわざお送りしていただきました。Packer師はカナダ・バンクーバのRegent CollegeというJames Houston師が設立した福音派の神学大学院で教鞭をとっておられ、お世話になった方はPacker師にも師事されていたそうです。

 肝心のPacker師の小論文に目を通す前に、お世話になった方が書いた訳者あとがきを先に読みました。あとがきの冒頭には、Packer師の葬儀に際してHouston師が友人代表として弔辞を述べたそうで、その弔辞の内容が書かれていました。

・・・生涯神理解の「正確さ」(precision)」を一貫して追求し、「正確な神」(the precise God)を信じた人であった・・・
(Packer師の葬儀に際してのHouston師の弔辞に際しての編訳者の記事より)

 また、そのお世話になった方がPacker師の小論文を編纂するにあたっての書籍に掲載する基準として「さばき」と「信仰義認」をモノサシにして6通の論文を選定した経緯が書かれていました。

 この訳者あとがきに目を通して、「神の義」という言葉を頭に思い描いています。宗教改革の三大原理として「聖書のみ」、「万人祭司」そして「信仰義認(信仰のみ)」があり、「神の義」というのはプロテスタント信仰の根幹にかかわることになるのではなかと思います。

「神の義」、“righteousness of God” という言葉にまとわりつく思い出として、埼玉・三郷に住んでいた時に、JR武蔵野線、千代田線、新京成、北総・公団線を乗り継いで千葉ニュータウンに新設されたばかりの東京キリスト教大学(TCU)に移転・併設されていた東京基督神学校に聴講生として通い、その中で丸山忠孝先生の教会史の授業を受ける中で、宗教改革を扱う授業でのルターの「神の義」の解釈についての丸山先生の説明が心に残っています。

「神が不義である罪人を義と認める義」
(ルターの「神の義」の解釈に関しての丸山先生の説明)

 「神の義」は神様からの賜物であり、不義である罪人が善行を積んで義人となることを要せず、罪人のままの状態で「神の義」の恵みを信仰によって受け取るのがルターの宗教改革のルーツだということだったと思います。

イスラエルの神ヱホバよ汝は義し 即ち我ら逃れて遺ること今日のごとし 今我ら罪にまとはれて汝の前にあり 是がために一人として汝の前に立ことを得る者なきなり
(Ezra9:15、文語訳)

 32年前、埼玉の三郷から神戸に引っ越す直前の3ヶ月の間、武蔵野線、京浜東北線、埼京線、丸の内線、そして方南町支線を乗り継いで2時間以上掛けて東京・堀の内にある日本長老教会の杉並教会に通い、小畑進牧師の御言葉のとりなしに養われていましたが、小畑先生が1994年3月6日の「一本の釘」と題するエズラ記からの説教を記した礼拝ノートを読み返すと、エズラ9:15に関してだと思うのですが「主の義しさから逃れることはできない」と走り書きがあり、続いて礼拝ノートに書かれていたのは、

「地獄に堕ちるなら、その中でも神へ賛美する姿」、「たとえ地獄に堕ちると予定されてながらも、その中で、神の義しさ告白し、賛美する精神をエズラから学ぶべきでは」
(「一本の釘」エズラ9章、小畑進師、日本長老教会 杉並教会、1994年3月6日主日礼拝説教より)

 エズラ9:8は、新共同訳では「あなたの聖なる所によりどころを得るようにされました。」とあり、NIVでも”giving us a firm place in his sanctuary”となっていますが、KJVでは“to give us a nail in his holy place”となって、新改訳では「ご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。」とあり、小畑先生はKJVや新改訳の「一本の釘」を説教題にして、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の「一本の糸」に例えていたのが礼拝ノートにメモしていました。Packer師の小論文集に収録されている「永遠の懲罰をめぐる問題」という小論文の中に「神のなす応報的過程」 ”divinrly executed retributive process”というフレーズが登場するのですが、なんとなくエズラ9:8の「一本の釘」を、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の「一本の糸」に例えた小畑師流の説き明かしに、日本的なアナロジーを感じました。釈迦が極楽の蜘蛛の美しい銀色の糸を地獄に堕ちたカンダタのもとに下すことに端を発する短編の「蜘蛛の糸」にエズラ9:8を重ねての説教だったのかなあ~と感じています。

 さらに小畑師はKJVや新改訳の「一本の釘」を、「私たちの救いの釘・イエスキリスト」としたのも説教題と大きく関係していたようです。

 私が洗礼を受けた石橋久子牧師は、私が石橋先生に何かを訊いた時に、いろいろ話をする中で

 信仰とは全面降伏であり無条件降伏なのです。神様には絶対にかなわないというのが信仰です。
(石橋先生談)

とご自身の信仰を言い表した三郷団地の1DKの一室の教会のシーンと共に思い出します。

 「神の義」から思い出される3人の先生方の言葉は、それから長い歳月を経た今・現在に思い出しても、過去のノスタルジーではなくて、活き活きとした言葉として、その時の光景と共に鮮明に蘇ります。

 「さばき」という言葉は、裁かれて有罪となって罪が定まるイメージと、無罪となって赦されるイメージを併せ持ち、それは二者択一の岐路であり「弁別」というニュアンスとのアナロジーを感じます。

  「弁別」という言葉ですが、この言葉は私にとって子ども時代の記憶がこびりついています。小学5年生の時に、当時の少年向け科学雑誌の広告に、アマチュア無線の免許を勉強する通信教育の広告が載っているのを見て、親に頼んで受講することになって、テキストが送られてきたのですが、小学生の私にとって難解でした。もう半世紀以上前で、トランジスターはラジオ等で実用化していましたが、まだテレビやラジオは真空管の時代でした。電波から音声だけを取り出す「検波」という二極真空管の動作と、交流を直流に変換する「整流」という仕組みに共通する言葉として、特定の方向に流れる電流だけを取り出す「弁別」という概念が、当時の私には理解できず、辞典を見てもわからなかった悔しさのようなものが、今の私にも「弁別」という言葉にまとわりついて、キリスト教の「さばき」という言葉に接すると「弁別」という言葉をも連想してしまいます。

 さらに通信教育の内容が進むと、アンテナからの電波の信号の中から、目的の無線局・放送局の信号だけを取り出す「選局」 “tuning”も、特定の周波数成分だけを取り出す「弁別」の概念であることを、工業高校で教える立場になった時に気付きました。レギュラーコーヒに熱湯をかけて、抽出されたコーヒーと抜け殻のコーヒー豆の粉の混じったものからフィルターを通してコーヒーを飲むことも「弁別」なのかなあ~と授業ノートをつくりながら思ったこともありました。

 小畑先生が言われたように「さばきとは、神の義で弁別されること」で、そして信仰とは石橋先生が言われた「神様への無条件降伏」で、控訴も上告もなく、「神の義で弁別されることに、ただただ御名を賛美すること」・・・丸山先生の教会史の授業で、中世には「教会に埋没した自我」の状態となり、宗教改革によって「神の御前の自我」が発掘され、そしてその後の近代哲学で「神の御前」抜きの自我が一人歩きしたというようなフレーズを言われて、言い得て妙だなあ~と感心した印象と共に「神の義」と「さばき」という信仰に関することが、過去の思い出のようなものと共に、心の奥深くにこびりついているのかなあ~と感じます。

 ”divinrly executed retributive process”(神のなす応報的過程)というフレーズでPacker師が表現したことを、しっかりと咀嚼出来てはいませんが、釈迦が極楽の蜘蛛の糸をカンダタのもとに下し、カンダタが地獄から出られると思って糸につかまって昇る中で、途中で振り返るとカンダタの後から多くの罪人達が地獄から糸につかまって登ってくる姿を見て、多くの罪人の重みで糸が切れることを恐れたカンダタが「この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と叫んだ途端、蜘蛛の糸がガンダラの真上の部分で切れ、ガンダラが地獄の底に堕ちるのを見て、釈迦が静かに蓮池から立ち去ったという仏教的な物語にオーバーラップするものを感じてしまいます。

itsumi
信仰