氷点・原罪

 三浦綾子の小説「氷点」では「原罪」が重要なテーマとなっています。

・・・今まで、どんなにつらい時でも、じっと耐えることができましたのは、自分は決して悪くはないのだ、自分は正しいのだ、無垢なのだという思いに支えられていたからでした。でも、殺人者の娘であると知った今、私は私のよって立つ所を失いました。

・・・一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があったのだということを。私の心は凍えてしまいました。 陽子の氷点は、「お前は 罪人の子だ」というところにあったのです。

・・・私はもう生きる力がなくなりました。 凍えてしまったのです。

・・・今、「ゆるし」がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪を、ハッキリと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです。

(氷点、陽子の遺書より、三浦綾子)

 三浦綾子が「氷点」で描いた罪・原罪は、陽子の遺書に書かれた『一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があったのだということを。私の心は凍えてしまいました。』とあるように、「心さえ凍えてしまう氷点」という言葉で言い表し、そして『今、「ゆるし」がほしいのです・・・私の血の中を流れる罪を、ハッキリと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです』と続いています。

 遺書の最後には、

 何だか、私は今までこんなに素直に、こんなへりくだった気持ちになったことがないように思います。
(氷点、陽子の遺書より、三浦綾子)

 久し振りに本棚から「氷点」を手に取ったのは、”divinely executed retributive process”(神のなす応報的過程)というJames I. Packer師の言葉に触れて、「永遠の懲罰をめぐる問題」という小論文と出逢ったことが切っ掛けです。

… I do not propose at any point to use the word ‘torment’, scriptural though it is (see the story of Dives and Lazarus: Lk. 16:23, 28) for describing the state of the ungodly beyond this world. Its vibrations, too, are bad: to the modern mind, it suggests sadism and cruelty and torture,…

…In what terms, then, do I propose to carry on this discussion? I propose, positively, to speak henceforth of the divinely executed retributive process that operates in the world to come.…
(The Problem of eternal punishment, James I. Packer)

「永遠の懲罰」(divinely executed retribution)というJ.I.Packerの使った言葉が、三浦綾子が「氷点」という言葉に込めた思いにオーバーラップしました。

…the condemnation justly imposed by God as the Judge, vindicating righteousness, is also, and in a sense primarily, self-inflicted through our own perversity in choosing death rather than life.…
(The Problem of eternal punishment, James I. Packer)

 陽子の「私はもう生きる力がなくなりました。 凍えてしまったのです。」の言葉が、”self-inflicted through our own perversity in choosing death rather than life.” 「いのちよりむしろ死を選んだ強情さを通して自らに課されたもの」(長島訳)と重なるのですが、三浦綾子にとっての「今までこんなに素直に、こんなへりくだった気持ちになったことがない」のに対して、J.I.Packerは”perversity”(強情さ)と捉えて、真逆のように感じますが、J.I.Packerは「聖なる創造主の賞賛すべき正義」(the adorable justice of a holy Creator)に関してなのに対して、三浦綾子は陽子という登場人物の言葉ですし、さらに陽子は遺書を書いて自殺を図るも発見されるのが早く、「氷点」の最後は、啓造の「助かるかもしれない!」で終わっています。

 罪・・・聖書では創世記3章で顕われます。

蛇婦に言けるは汝等かならず死る事あらじ。神汝等が之を食ふ日には汝等の目開け汝等神の如くなりて善惡を知るに至るを知りたまふなりと。婦樹を見ば食ふに善く目に美麗しく且智慧からんが爲に慕はしき樹なるによりて遂に其果實を取て食ひ亦之を己と偕なる夫に與へければ彼食へり。是において彼等の目倶に開けて彼等其裸體なるを知り乃ち無花果樹の葉を綴りて裳を作れり
(創世記3章4-7節、文語訳)

そして

彼等園の中に日の清涼き時分歩みたまふヱホバ神の聲を聞しかばアダムと其妻即ちヱホバ神の面を避て園の樹の間に身を匿せり
(創世記3章8節、文語訳)

 ヘビを通してヒトに入った罪に関して、アルミニウスやウエスレーの解釈・捉え方と、カルヴァンの解釈・捉え方との間に差異があり、ウエストミンター信仰基準などを読み返して点検・確認しています。カルヴァンが「神の主権」を中心にTULIPと言われるカルヴァン神学にもとづいているのに対して、アルミニウスやウエスレーは「神の愛」を中心にして、ヒトの自由意志を大切にしており、ウエスレヤン・アルミニウス神学とカルヴァン神学の狭間で、あれこれと考えさせられます。

 ちなみにウエストミンター信仰基準の立場からは、善悪の知識の木は神がアダムに与えた「行為契約」のしるしだそうで、神への従順を試すための象徴的な境界という捉え方のようです。そして神はアダムの堕落を予め知っていたが、罪を創造したわけではないようです。


 







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