玉造教会

 カトリック玉造教会は、カトリック大阪高松大司教区の司教座教会なので、大阪高松カテドラルの大きな大聖堂(大阪カテドラル聖マリア大聖堂)があります。外観は体育館のような感じですが、内部は和風・日本的な雰囲気の教会で、日本画の大きな壁画が3点あります。

 もともと玉造教会にあった聖アグネス聖堂が1945年の大阪大空襲で焼失して、司教座が夙川教会に移されていたのが、1963年に今の聖マリア大聖堂が建てられ、司教座も玉造教会へ戻された経緯があります。1963年というとカトリックでは第2バチカン公会議が開かれ、1961年からの第1会期が終わった後に、教皇ヨハネ23世が逝去して、後継のパウロ6世が公会議の継続を宣言して、ちょうど第2会期が始まった頃になります。その後第4会期が終わって、最後にカトリック教会と正教会(オーソドックス)による1054年の相互破門を相互に解除して公会議は1965年に閉会しています。大阪カテドラルは第2バチカン公会議の影響を強く受けたのか、日本という地域を意識したローカライゼーション、コンテクスチュアリゼーションが色濃く出ているような印象を持ちました。

 大阪カテドラルを訪れたのは2025年の7月です。実は前日にカトリック神戸中央教会でのパイプオルガンの演奏会へ行ったのですが、神戸中央教会のパイプオルガンは修理中で、急遽持ち込んだオルガンでの演奏でした。

 エルサレムの聖墳墓教会のオルガニストが、ガザ地区支援のための演奏会で、紛争でテルアビブ空港の発着が出来なくなって春の首都圏での演奏会は中止になっていたのですが、今回は、テルアビブ空港から幾つも経由・乗り継ぎをして日本に辿り着くことが出来たそうで、オルガン演奏はもちろん素晴らしかったのですが、ガザ地区の困窮の現状と支援の困難さを、実際に食料等のガザ地区への支援の現場の声が心に響きました。

 ただ素晴らしいオルガン演奏だったのですが、パイプオルガンではなかったので、急遽、翌日の大阪カテドラルでの演奏会へ行った次第です。福列された高山右近関連が多く、細川ガラシャとの所縁もあるとのことで、前から訪れたかったこともあります。

 以前に、真田幸村の足跡を辿って、真田丸の戦いの地を廻った折に、大阪カテドラルが近くにあるので、ついでに行こうと思って、わからないままになっていましたが、真田丸跡と大阪城とのちょうど中間ぐらい、難波宮跡のすぐ近くに位置していました。大きな大きな大聖堂で、神戸中央体育館と同じぐらいかなあ~と感じたほどです。

 カテドラルの真正面から撮ろうとすると、普通の広角レンズでは入りきれず、超広角レンズでの撮影。聖マリア大聖堂なので、正面は無原罪の聖母像、そして正面玄関前の向かって左手には高山右近像、右手には細川ガラシャ像があります。

 本堂に入ると、真正面に巨大な日本画があるので、和風の日本建築、寺院のようなイメージです。この壁画は日本画家の堂本印象作の「栄光の聖母マリア」で、マリアは和装で、東洋・日本人の顔立ちをしています。第2バチカン公会議における教会論・マリア論を顕わしたものだそうです。「古代・中世のヨーロッパのキリスト教」ではなくて「今の日本の信徒のキリスト教」を堂本印象がこの壁画に託したのか・・・そこまではわかりません。

本堂正面の向かって左には、同じく堂本印象作の「ルソン行の高山右近」の日本画です。キリシタン大名の高山右近は、徳川家康のキリシタン国外追放令によって、加賀前田の家から慶長19年(1614年)にフィリピン・ルソン行きの船に乗り、翌年にはマニラで亡くなっています。

明石・林崎漁港、2024年10月2日

 高山右近は、父がカトリックの洗礼を受けた折に、家族や家臣も一斉に洗礼を受ける中で10歳か11歳で洗礼を受けたようで、その後、織田信長の治世で高槻を所領するキリシタン大名となり、本能寺の変の後、豊臣秀吉から天正13年(1585年)に播磨国明石に転封となって、明石郡を所領するキリシタン大名となって、当時の船上城の城主となっています。船上城は、江戸時代の初期に今の明石城に移るまでの明石のお城で、明石警察の西・古城川沿いに船上城本丸跡が古城神社として痕跡をとどめています。

 当時の明石は、明石川の右岸の林村(現在の林崎町)近辺が明石の中心だったようで、キリシタン大名の高山右近が所領するようになって、当時の林崎港は国際港のような様相で、堺の町へ出入りする黒船が明石の林崎港にも立ち寄ったそうです。

法蔵寺 かくれキリシタン十字架、2022年12月29日

 右近が所領していた明石郡は、現在の明石市、そして神戸市垂水区と西区がおおよその範囲で、私が住んでいる垂水の住宅地も、当時はキリシタン大名が殿様だったことがあることになります。

 右近は仏教を弾圧することはなかったそうですが、領民がキリスト教に改宗することを喜ぶために、高槻の寺は結果として信徒を失って廃絶し、廃寺となった跡に天主堂(教会)を建てたそうです。明石・林崎にある宝蔵寺からはマリア観音の十字架が見つかっており、これはキリシタン禁教令後に拝礼のため、お寺の壁に埋め込んだものという伝承があるそうです。垂水・名谷の転法輪寺にはキリシタン灯籠があるとのことで、確認に行ったのですが、その折の写真はPCにあるはずですが、見つかりませんでした。

 今住んでいる垂水の町は、四百数十年前は、領主の高山右近がキリスト教で、多くの領民がキリスト教に改宗した時代があったことに、思いを馳せました。

 そして本堂正面の向かって右には、同じく堂本印象作の「ガラシア夫人の最期」の日本画が掲げられています。細川ガラシャは明智光秀の娘で細川忠興の正室で、豊臣秀吉が大阪城を築城した折に、細川家が大阪城の近くに屋敷を建て、ガラシャは其処に住んでいましたが、本能寺の変の光秀の娘という謀反人の家族として、外出は制限されていたようです。夫の忠興を通して高山右近の話を聞いて、それ以降、忠興が九州征伐の間に、ひそかに教会へ通ったそうです。

細川ガラシャの最期に関わる井戸、2025年7月21日

 豊臣秀吉の死後、石田三成が関ヶ原の戦いで西軍となる諸大名の家族を人質にすることになり、細川家の周りに石田軍が取り囲んだ時に、「ガラシャは祈りを捧げたのち、ともに死ぬことを願う侍女たちを屋敷から退避させ、跪いてイエズスとマリアの御名を繰返し唱えると、家来によって首を落とされ、家来たちは火薬を撒いた上で火を放って切腹し、屋敷は灰燼に帰した」という記録が残っています。

 ガラシャの最期がこれまでは自殺と見なされ、列福列聖は論外とされたようですが、自殺の考えが見直されつつある現在は、その死はむしろ尊厳死と見なすべきではないかという意見もあります。

 そして本堂後方には日本二十六聖人・・・1597年(慶長元年)に豊臣秀吉の命令によって西坂の丘で磔の処刑を受けた26人のカトリック信者の絵が並んでいます。

長崎・西坂の丘、1995年11月

 今から32年前に長崎を訪れた時の記念写真です。

 大阪カテドラルは、正面に日本画、中央に和装の聖母マリア、そして列福されていない高山右近と細川ガラシャの壁画が左右にあり、後方には日本二十六聖人の絵、第2バチカン公会議の影響を受けた「日本の信徒のキリスト教」を感じる聖堂という印象を持ちました。

福者ユスト高山右近殉教者 祈りの場、玉造教会Webサイトより

 福者ユスト高山右近殉教者の聖遺物を展示した祈りの場がありました。(撮影禁止なので玉造教会のWebサイトから)村田佳代子画伯の「福者ユスト高山右近の生涯」が展示され、福者ユスト高山右近の列聖を願う祈りの場だそうです。

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